源流
朝鮮系の焼物が
今日殆ど隠滅し去つた時
ひとりこの窯ばかりは伝統を続けて
今も煙を絶やさない
小鹿田焼のはじまり
小鹿田焼は、筑前藩主・黒田長政が朝鮮の陶工を日本へ連れ帰ったことに端を発します。16世紀末、秀吉とともに朝鮮に出兵した時のことです。陶工の名は八山といい、直方の高取山に窯を開きました。その後、孫の八郎が小石原焼を開窯します。そして18世紀に入り、日田の代官が小石原焼の中野窯陶工・柳瀬三右衛門を小鹿田に招いて、技術を伝授してもらいました。資本金は鶴河内村柳瀬の黒木十兵衛が用意し、土地は鶴河内村小鹿田地区の当時センドウ※であった坂本家が提供。こうして小鹿田焼は産声をあげ、日常に使用する民陶として歩んでいきました。
小鹿田焼の地名の由来
この村は昔、鬼が棲むような山奥の場所という意味で「鬼田」と呼ばれていました。
しかし後の人が、「鬼田」は怖いイメージがあるので、かわいい小鹿の字に置き換えて「小鹿田」=おんたと言うようになりました。近頃は秋になると、山々から小鹿たちや親鹿の鳴き声が聞こえてきます。
半農半陶
凡てを自給せねばならぬ
山間僻陬の地理…
今もその習慣が続いてゐるのであらう
半農半陶時代の窯業
小鹿田の皿山地区では、明治以降、農閑期に窯業を行う半農半陶で生活していました。耕地は集落から離れた山間地にあり、農業は重労働であることから若者が担当。作陶は比較的高齢の人が行っていたと伝えられています。
小鹿田焼は一子相伝 ※の家業です。しかし、農閑期中心の窯業では技術の伝承は難しく、窯業を継承しない後継者が現れた時代もありました。その際には、祖父から孫へと隔世伝承されたといいます。減反政策が始まったこともあり、昭和50年(1975)にはすべての窯元が専業化しました。こして今も小鹿田は、一子相談の伝統を守っています。
弟子入り
焼き物を毎日作る生活ではなかったから、自分の家で仕事を覚えさせることができません。それで、どの家も跡取り息子を小倉や久留米などの窯元のところへ4、5年は弟子に出していました。私は中学校を卒業してすぐ、近所の窯元に弟子入りし、住み込みで働きました。毎朝4時に起き、朝飯前に山まで2往復し、刈ってきた草を牛に食べさせ、昼間も百姓仕事。焼き物作りを習うのは、月に5回ぐらい。弟子入りしてからの2年間で、正味120日くらいでした。
坂本茂木さん談
発見
私はその自然にその歴史に
心を誘はれたのではない…
焼物に心を惹かれて来たのである
柳宗悦との出会い
民藝運動※の創始者として有名な柳宗悦は、久留米で「日田もの」と呼ばれる陶器に出会います。昭和2年(1027)のことでした。4年後に小鹿田を訪れ、作業場や作品を目にした柳は、昔のままの朝鮮風の手法がゆがめられず、立派に残されていることに驚きます。伝統技法を受け継ぐ民陶として価値を見いだしたのです。昭和29年(1954)には世界的な陶芸家であるバーナード・リーチが里に3週間滞在。また、濱田庄司(はまだしょうじ)など民藝運動家たちの応援もあり、小鹿田焼は世に知られるようになります。民陶ブームにより小鹿田焼の需要は急増しましたが、窯元たちは手づくりの伝統を守り続ける道を選びました。
※民藝運動:「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す運動
柳宗悦の思い
昭和36年(1961)の『民藝』5月号に、小鹿田焼の行く末を憂慮した柳宗悦の随筆が掲載されました。「今日スイスやスエーデンで、伝統の仕事が栄えてゐるのは、(中略)国民全体に国の正しい伝統を守ろうとする気運が高まってゐるからに依る。これは国家の保護よりも、どんなに根本的な鼓舞であるか分からない」と書かれており、土地固有の文化を保護する事に対し深い理解を求めていることがわかります。柳の思いがかない、昭和37年(1962)から日本民藝協会による小鹿田焼の指導が始まり、製陶技法の維持継承の方針も定められました。
バーナード・リーチと小鹿田焼
イギリスの陶芸家バーナード・リーチ(1887-1979)は、日本を代表する陶芸家 浜田庄司、河井寛次郎らとともに、1954年4月に小鹿田皿山を初めて訪れました。
約3週間この地に滞在したリーチは、作陶研究や陶工への指導の傍ら、集落の人々との親交を深めています。それから10年後、1964年に再度この地を訪れたリーチは、陶土を砕く「唐臼」の音風景や自然と調和した焼物づくりの伝統が変わらず残っていることを喜び、この焼物の里が永遠に守られていくこおを願っていました。
陶芸館では、リーチが1954年滞在時に制作した「壺」と「鹿文大皿」を展示しています。
この二つの作品には、独特のタッチで書かれた動植物とともに小鹿田焼の技法「飛び鉋」の模様が刻まれています。
評価
万事が粗野である
だがそれで十分である
否、それでないと十分でない
柳宗悦著『日田の皿山』より
国の重要無形文化財に指定
小鹿田焼の窯元は、「機械化せず、伝統的な技術を守ること」「需要に応じた作品を作り続けること」「個人作家を作らないこと」などの方針を定め、意識的に伝統を保持しています。その結果、小鹿田焼の伝統性は際立ち、機械化しない類まれなる民陶として大きく評価されてきました。昭和45年(1970)には、文化庁が小鹿田焼を「記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財」に選択。さらに平成7年(1995)には国の重要無形文化財に指定され、小鹿田焼の伝統的製陶技法が文化財として位置づけられました。小鹿田焼技術保存会も保持団体として国の認定を受けています。
重要無形文化財の指定要件
小鹿田焼の特徴
機械を使わない
川の流れを動力にした唐臼、足で回す蹴轆轤、薪を使った登り窯…。
小鹿田焼は自然の力と人の労力で作り上げます。
家族で営む
伝統技法はすべて一子相伝で引き継がれてきました。
土づくりも釉薬作りも、家族だけで行い、外部の手が入ったことはありません。
手づくりの道具
窯元の名を入れない
作品には窯元名は入れません。
それは小鹿田焼が窯元全員で行う原土の採取から作品づくりが始まる
地域ブランドだからです。
絵を描かない
刷毛目、飛び鉋、指描き、櫛描きなど独特の文様、そして釉薬の掛け模様など、手業ならではの素朴な味わいが小鹿田焼の特徴です。
小鹿田焼ができるまで
1. 原土の摂取
2. 原土の乾燥
3. 唐臼による原土の粉砕
乾燥を終えた原土は水力を利用した唐臼で粉砕します。
20日から30日すると粒子状になります。
4. 水簸
粒子状にした限度に水を加えカワボウで攪拌します。
できた泥水をふるいで何回も濾します。
5. 水抜き
濃縮した泥水を「オロ」と呼ばれる濾過層で水抜きします。
さらに天日や窯の上で乾燥させると陶土となります。
6.形成
成形は蹴轆轤を使って行います。作品の大きさ等により
「引きづくり」、「玉づくり」、「紐(ひも)づくり」の3つの手法を使います。
7. 乾燥
8.鉋・化粧土により装飾
伝統的な装飾として「飛び鉋(かんな)」、「打ち刷毛目(はけめ)」、「指描き」、「櫛描(くしが)き」
などがあります。蹴轆轤を回転させながら施します。
9. 施釉
釉薬による伝統的な装飾として、作品に柄杓で打つようにかける「打ち掛け」と、
作品全体に流れるようにかける「流し掛け」が代表的な技法です。
10. 素焼き
小物や濃い釉薬の作品には素焼きを行います。
割れや釉薬が飛んでしまうのを防ぐためです。
11. 焚き物の準備
窯をあたためるために使う薪は古材を使い、焼成に使う薪は主にスギを使います。
12. 登り窯による焼成
薪を使った登り窯で焼成を行います。
火を入れると、約40時間(共同窯は約55時間)夜通し焚き続けます。
冷却後、窯開けを行い製品を出します。
なぜこの窯が
今も昔のやうに作るかゞよく分る…
又来たい心が頻(しき)りに湧く
柳宗悦著『日田の皿山』より
小鹿田焼を愛し続けた柳宗悦。柳は小鹿田焼の名を世に知らしめたが故に、陶工たちが一過性のブームや利潤を追求する資本の介入に翻弄されることがないよう、亡くなるまで心配していました。陶工たちは柳の教えを守り抜き、今日まで着実に歩んできました。自然に感謝し、先祖から受け継いだ技と心でつくる小鹿田焼は、あくまでも生活の器です。追求しているのは、使うほどに美しさが増す「用の美」です。観賞用の美術品づくりを行わなかった理由もそこにあります。暮らしの中で愛される器、「民陶」へのこだわりはこれからも変わることはないでしょう。